
角川春樹
映画監督・プロデューサー・俳人



【国文学者の父】
1942年富山生まれ。国文学研究者であり、角川書店創業者の角川源義氏を父に持つ。
“父はライバルだという意識があった。9歳から俳句をやって、9歳から親父の俳句のライバル、9歳でも親父に全然負けてないからね。その親父の論文とかを読むと、学者としてのひらめきだとかには、やはり舌を巻くよね。だから、自分が完璧に及ばないのはその国文学という一点においては、俺は親父に未だに全然、及んでないんじゃないかと思う。”
【ボクシング三昧】
1960年国学院大学入学。
学生生活は、“朝稽古して、昼間大学で稽古して、夜はジムで稽古”
渋谷駅前で200人を相手に乱闘騒動も…。“加害者か被害者かというんで問題になったが、
1対200なら絶対、俺被害者だと頑張った。しかも相手は角材持ってる訳じゃないですか。
逃げるやつ追っかけてって蹴飛ばして、3人が3ヶ月入院をしてしまってね…”
【「中井春樹」の名で就職】
卒業後、母の旧姓「中井春樹」の名で他の出版社に就職し、取次店の返品倉庫係に。“親父は他社の飯を食わすという意味だったんだけれど、現実に返品倉庫に行ったら、あまりの膨大の返品にひっくり返った。これは「企業」ではない、自分はこれを「企業化」しなければいけないと思った”
【1ヶ月半で取締役降格】
1965年角川書店入社。1967年『カラー版世界の詩集(ソノシート付)』など立て続けのヒット作で取締役に就任したが、自分が反対したにもかかわらず出すことになった『カラー版日本の詩集』の責任を取らされ“4月に常務になって、5月に平社員に落とされた”
【横溝正史ブーム】
当時アメリカでホラーがかったミステリーいわゆる「ゴシックノベル」がベスト10の中に4~5作あった。
“日本のゴシックノベルってなんだろうと思うと、横溝さんと乱歩さんしかいない。ずーっと様子を見ていたら、日本では『八ツ墓村』が漫画になって登場。コミック誌というのはね、どの時代でも一番先端なんですよ。一方、当事話題となった国鉄のキャンペーンで「ディスカバー・ジャパン」というのがあって、その対象は日本人の原点や、故郷や、風土。そういうものを取り入れているのが、横溝さんのミステリーだった”
【角川春樹事務所設立】
父が死んだ翌年の1976年「角川春樹事務所」設立し、出版社自らが映画製作。
“その頃は映画界がガタガタだったから、逆に新規参入はしやすかった”
“父が生きてたら映画なんかやらせっこないんだよね。父が生きていたら、父を追い出すか、自分が出てね、興すっていうのは腹にあった”
【メディアミックスの完成「人間の証明」】
1977年映画「人間の証明」公開、映画主題歌も大ヒット。
“アメリカのペーパーバックで映画になった「卒業」は、音楽がサイモン&ガーファンクル。映画もいいし、ダスティン・ホフマンも一躍スターになる。そういうのを見て映像と活字と音楽っていうのは絶対3つ必要なんだと思った”
【服役生活】
“最後の方は自分は最優秀のいわゆる職工になったけどね。模範囚で早く出ないとお袋
が重病になっていて、死に目に会いたいと思ったんだよ。だから、どんなことがあって
も耐えようと。どんな屈辱だろうが、嫌がらせだろうが全部耐えていたんだよね。だか
ら、お袋が病気でなかったら、恐らくねえ、もう満期でもいいからって暴れまくってた(笑)”
【復帰第一作『男たちの大和』】
2004年、2年5ヶ月の服役を終え仮釈放。出所後のパーティーでスピーチに立つ人がみんな「映画だけは作らないで!」と言う中、実姉辺見じゅん原作の「男たちの大和」を映画化。
“刑務所を出てから変ったことというのは、映画作りを人間ドラマにシフトしてきたこと”
【座右の銘『生涯不良』】
“要するに何者にも縛られない、最も自由な精神。「不良」というのは「良ではない」ってことだよね。しかしそれは「不可」かもしれないし「優」かもしれない。ただ良識とか常識とは違うわけでね”
“俺の行き方を灯台として学べ。教科書に載らない英雄、文化はどの時代も不良が作ってきた。俺を目標にして不良になれ”
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