
石原慎太郎
東京都知事・作家



【少年時代】
1932年神戸生まれ。弟は俳優の石原裕次郎。その後、父の仕事の関係で北海道の小樽に移り、12歳からは神奈川県の逗子で育つ。
“僕の精神的な情念の風土は、やはり湘南”“なんて優しい風土、なんて美しい海なんだろう”
【自分一人が突っ張ってもしょうがない】
13歳(中学1年生)のとき終戦。
それから1年後の夏の終わりころ、みんなが息を潜めて酔っ払いのアメリカ兵が肩をきって歩くのを見送っているのに、“僕は悔しくて”道の真ん中をアメリカ兵を無視してすれ違ったら“いきなり殴られた”
学校の先生から“石原、これは忍べ。忍ばざるを得ないんだから忍べ”と。
【自分ににつかわしくない学問】
1952年一橋大学入学。
京都大学でフランス語を学ぶつもりが、父が急死したため、家計を支えようと父の上司の勧めで一橋大学へ。
「君の家は心配だ。経済観念のないお母さんと、弟を養うために公認会計士になりなさい」と。入学してから、簿記やら会計学をやったが“全く自分ににつかわしくない学問なので、半年でやめた”
【貧困は“贅沢”】
学生時代、寮の食事だけでは足りず手元の15円で“何買おうかな”と。当時、甘食というパンが5円、メロンパン・ジャムパンが10円、一番贅沢なカレーパンが12円。
“カレーパンを食べたいけど、ジャムパンともうひとつ甘食を買って我慢した”
“貧困というのは今になると実に懐かしいし、ある意味で贅沢”
【現代の若者像】
“今の若者の精神に張りがない”“気の毒で、哀れな感じがする”
“情報が整理されすぎていて、この頃の若い連中は「勘違い」「思い違い」をしなくなった、「あっそうか!!」と、勘違いに気がつきそれを修正することでアウフヘーベン(より高い次元の認識に達する)するんだけどね”
【政治家を志した理由】
物書きになって、一応名も通ってきて自分の分別がついてきた時に、ベトナム戦争を取材に行き“国家の行く末などいろいろなものを感じさせられた”
“ものを書いているだけでは、自分が余ってしまう”
【『NOと言える日本』『NOと言える日本経済』】
1989年『NOと言える日本』発売。125万部の大ベストセラー、アメリカでも50万部の大ヒット。当時ワシントンポストから「洒落た洋服を着た日本の悪魔の生まれ変わり」と書かれたが“今でも誇りに思っている” ※途中で、英語で言うのをやめているので、英語はなくていいと思います
その後、もっと緻密な『宣戦布告「NO」と言える日本経済~アメリカの金融奴隷からの解放~』を出版。アメリカの大手出版社に持ち込んだら「この本は確かに正確で緻密だが、日本はもう怖くありません。まさに日本はアメリカの金融奴隷です。この本は出しても売れません」と。
【現代の教育】
“子供の時に肉体体験をしていない人間は、大人になって非常に不幸な人生を送る”
「今は暑いよ」って言ったらすぐ冷房、「寒いよ」って言ったら暖房。お腹がすいたらすぐ間食という生活は、“子供のこらえ性というものを阻害している”“貧乏の贅沢さ、我慢させられることを味わったことがない子供は気の毒”
【メッセージ】
“人間の価値は個性。人と違うことに意味がある”
“横並びの時代なんて全くくだらないし、子供たちを駄目にする”
“自分の感性となって表れてくる原点である情念を豊かに鋭くしてほしい”
“そのためには他人が何て言おうと人のことは気にせず、自分の趣味をもつことが大切”
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