樋口久子

樋口久子

樋口久子

日本女子プロゴルフ協会会長

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堂々履歴書

樋口久子 堂々履歴書

エピソード
【川越生まれ】
1945年埼玉県川越生まれ、8人兄弟の6番目。幼少時代は“外に出歩くのは好きではなかった。家でちょこちょこレース編みしたりするのが好きだった”

【ゴルフとの出会い】
“中学までは陸上(ハイジャンプ、80mハードル)をやっていて、足は速かった”
陸上を伸ばすために東京の高校に進学するが川越からは通学できず、“ゴルフ場に勤める姉の元から通学し休みになると姉の勤め先のゴルフ場について行ってゴルフを覚えた”

【師・中村寅吉との出会い】
(姉の勤めていた)砧のゴルフ場に、日本プロゴルフ界の父・中村寅吉がヘッドプロで在籍。「おい、お前プロゴルファーになったら俺のところに来い」と。それで川越の実家から、中村氏が社長を務めるゴルフ場(川越カントリークラブ)に通えるようになり“ほんとに中村先生に出会えて私はすごくラッキーだった”

【師・中村寅吉から学んだこと】
男子の場合だと「目で見て盗め」という時代に、“女性だったので、グリップから、何から何まで、すべていろいろなことを教えてくれ”
“中村先生が試合に行くときは付いていって、キャディをやらせてもらい、精神面の強さだとかいろんなことを学ばせてもらった”

【アメリカツアー参戦】
1967年第1回女子プロテストに合格、翌年の第1回女子プロゴルフ選手権優勝。
その後、1970年にアメリカ女子ツアー参戦。
“当時の日本は芝生の上で練習ができなかったが、アメリカは自分がやる気になれば何時間でも芝生の上でどんどんボールが打てた。すごく環境がよかった。だからアメリカのトーナメントに出るというのは魅力がすごくありましたね”

【パット病】
当時の日本で主流だった芝生の高麗グリーンと、アメリカで主流だったベントグリーンでは、感触もタッチもボールの転がりも全く違った。試合で日米を行き来するうちに
すっかりおかしくなり“パッティングの病気にかかった”

【日本人初のメジャー優勝】
1977年全米女子プロゴルフ選手権優勝。
前の週に最終組で回るもプレッシャーで自滅。
“最終日に、今日はスコアボードを見るのは止めよう、と。で、15番ホールでグリーンを読んでいたら向こうでカメラマンが動いて、そっちを見たら後ろのボードの一番上に自分の名前がある。どうしよう、どうしよう、と。”

【出産】
“女性というのは一人で生きていけない。やっぱり自然なのは結婚して子供もいてっていうのが、私の考えですから。アメリカで驚いたのは、練習ラウンドのとき、ご主人が子供さんをおぶって、カートに奥さんのキャディバックを乗せて運転している。アメリカってなんていいところなんだろうと思った”

【日本女子プロゴルフ協会会長に就任】
1996年、日本女子プロゴルフ協会会長に就任。
“スポンサーが求めているのは、視聴率とかギャラリー動員数”
“子供を教えることによって親御さんにもゴルフに興味を持ってもらえる”
子供向けにキッズゴルフを開催。過去11年間で3500人ぐらいの子供を教えてきた。
“キッズゴルフを受けた子供たちからプロテストを受けるような子が出てきたんです”

【改革】
2003年、日本女子プロゴルフ協会の組織改革に着手。新しいシステムで誕生した第一号が宮里藍。
“トーナメントの活性化を目指さくちゃいけない。もっと旬に今活躍できる選手を一人でも多くいれたいと思い、プロテストに合格していなくても、アマチュアの人にも出場資格を与える制度をつくった”
“プロと回るのに慣れさせると、いざ試合に出てきても物怖じしないんですよ。堂々としているんですよね”

【若いプロゴルファーに】
樋口さんが育った時代は試合が無い時代。スポンサーを探し試合を開いてくださいと頼んで回った時代だった。
“私たちは、ファンあってのプロゴルファーなんですよね。ファンを大事にして欲しいし、スポンサーを大事にして欲しい”

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