松原治

松原治

松原治

紀伊國屋書店会長 兼 CEO

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堂々履歴書

松原治 堂々履歴書

エピソード
【本との出会い】
1917年千葉県市川市生まれ。父親は陸軍士官学校を出た職業軍人。
“父親も母親も一切「勉強せえ」とは言わなかった。本なんかも欲しいと言えば買ってくれたが、「これを読め!」とかそういうこともなかった。放任主義といえば放任主義”

旧制高校に入ると、自由主義やマルクス経済学の本に没頭。
“小さいころはあまりよく本を読んだほうじゃなかったが、旧制の高等学校に入って、みんなが読んでいるのに刺激された”

【満鉄入社】
大学2年のときに父が戦死。1941年南満州鉄道調査部入社。
“親父が生きていれば学者になりたかったが、親父が死んだので就職した。亡くなった講談社の野間さんが満鉄にいて、7年先輩でスカウトにきて、『好きな勉強をさせてやるから』と”。
当時の満鉄は“日本国内にはおれないような右翼も左翼もみんな一緒に調査部にいた。思想も何もかもがばらばらの人々が、あんまり人に干渉しないで、好きな勉強ができる状況だった”

【陸軍経理学校】
1942年陸軍経理学校へ。600人の中トップで卒業。
“成績不良で原隊に返されると、原隊の恥辱になるんで、落第しない程度に勉強したら、一番になって帰った”
“「おまえは何でも出来る」って、むちゃくちゃにコキ使われ、危ないところへどんどん作戦に出され参った”

【紀伊國屋書店入社】
1950年紀伊國屋書店入社。
帰還後、“父母の郷里(島根県津和野市)の当主である亀井さんに身の振り方を相談に行くと「新宿に田辺という紀伊國屋書店の創業者がいるが、大酒飲みで仕事がさっぱりで、ダメだからひとつ一緒にやってくれ」”と。
“入った当時は、新宿の今のビルの少し奥へ入ったところで、150坪、社員が50~60名くらいで、とてもこんなのではダメだと思い洋書の輸入を始めた。洋書といえば丸善が最大手だったが、丸善も戦争で10年のブランクがあった”
“大学から注文をもらってGHQへ申請すると、外貨をくれ、それで輸入した。GHQも、日本が再び強国として立ち上がっちゃ困るが、国民の教養を高めるとか基礎的な科学とか、日本人が差し当たり食べていくための工業とかには非常に寛大だった”

【書店経営は“知のゼネコン”】
“本だけでなく、いろんなものを洋書からデータベースまで全部販売した”
“新設大学ができる時には、先生から何からすべてお世話した。しまいには、申請の手続きまでした”

【出版ブーム】
1955年ころから出版ブーム到来。石原慎太郎の出現や文学者がスターになるような時代がきて、だんだん書籍販売も伸びていく。
“衣食足るほどでもないけど、多少腹がいっぱいになったら、今度は知的欲求ですね”

【海外進出】
1969年サンフランシスコ店出店。
“アメリカも戦時中、ネヴァダ州の砂漠へ強制収用したりなんか、やっぱり悪いことをしたという意識があるんで、その罪滅ぼしの意味もあって、日本人街を立派に作り直してくれたり、色々とやる中、何か文化的なことはできないかということで、紀伊國屋に来ないかという話になった。”

【アジア的経営】
2008年にはドバイ出店。
“欧米っていうのはとにかくドライですよね。一切雇用関係も法律で。「アジア的経営」というのは、現地の人を幹部に使って日本人は表に出ない。そういう気持ちっていうのは社員にも伝わっていく。「紀伊國屋は自分たちの店だ」っていう意識ですね”

【経営哲学】
「資本金」は3,600万でずっと変わっていない。「内部留保」を増やしていく経営方針。
“今、20割配当をしているが、資本金が少ないからぜんぜん問題ない。”
“資本金は外に対しては意味をもっても、内に対してはやっぱり内部留保をしていけば、これは社員のものですから。社員はお金は持っていないし、元々は資本家じゃないんですから”

【メッセージ】
“できるだけですね。嘘は言わないこと。やっぱり正直で”
“立場立場で嘘はあると思いますが、やっぱり結果的に嘘くらい悪いことはないと思う。嘘を言わないですむような生活を!”

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