堀威夫

堀威夫

堀威夫

ホリプロ・ファウンダー最高顧問

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堂々履歴書

堀威夫 堂々履歴書

エピソード
【1932年10月15日横浜生まれ】
中学年のときに終戦。横浜という土地柄、周りにアメリカ兵が多かった。
“我が家の生垣の隙間から、怖いもの見たさで見ていた”
その印象は、
“日本の兵隊さんに比べ、結構かっこいいしスマート”

【ギターとの出会い】
中学3年の時、ラジオから聞こえてきた『湯の町エレジー』が非常に印象的だった。“ギター1本で前奏を自分も弾きたい!”とギターを買ってもらう。
しかし・・・
同じギターを使って、アメリカ兵が弾いてもらった音楽(カントリー&ウェスタン)
は、弾き方から何まで全く違っていた。
“カルチャーショックを受け、一気にのめり込んでいった”

【学生時代のバンド三昧が高じて】
高校時代に初めてバンドを組み、大学入学後はプロのバンドに参加して活躍。卒業時は不況(“なべ底景気”)で就職できず。文化放送でアルバイトをしたものの、結局自ら“堀威夫とスイングウエスト”を組み、それが大人気のバンドとなった。
“当時は、やりたいってだけで猪突猛進した。まあ若気の至りですね。でも、若気の至りっていうのは火事場の馬鹿力が出るなどポジティブな面もある。その中から、運のいい奴が世に出る”

【芸能プロダクション設立したものの】
1959年東洋企画設立。守屋浩の『僕は泣いちっち』が大ヒット。しかし・・・
“名前だけでいいから社長になってよ”と頼んだ社長に会社をまるごと奪われる。

1960年(有)堀プロダクション設立。1963年船木一夫の『高校3年生』大ヒットしたが、半年で独立。
さらに、守屋浩が飲酒運転をして逮捕され歌手活動謹慎になり、売り上げはゼロになり、一部のタレントに頼る経営の怖さを実感した。

“毛利元就は三本の矢と言ったけど、僕は四本の矢で、一人のタレントの売上げが2割5分を超えないような経営をしよう考えるきかっけになった”

【GSブーム】
イギリスからアメリカに渡り火がついた“ザ・ビートルズの人気を参考にして”1965年ザ・スパイダースデビュー。GSブームを牽引。
“ブームが来るって若いグループをいっぱい仕込んだ。もしブームが来なかったら、ホリプロは完全に潰れたでしょうね。これが来なければ、完全にデッドストックですから”

【次の一手】
“我々の商売ってすごく因果な商売で、自分で狙ってその通りになった途端にもう駄目な時を考えるんですね”
GSブームの中、 “満潮のあとには引き潮がくる”と、次の一手として和田アキ子を用意。「大女は売れない」というジンクスを破り1969年『どしゃぶりの雨の中で』が大ヒット。

【山口百恵誕生の裏側】
“桜田淳子がホリプロに来ていたら、山口百恵はとらなかった”

森昌子、石川さゆり、桜田淳子で、ホリプロ三人娘をつくろうと思ったもののプロダクションのバランスをとりたいテレビ局の意向で叶わず。三人娘の三つ目のメンツが欲しくて山口百恵をとった。

“歌もはじめはものすごくつらかった。NGが何回も出て、テープを継ぎはぎしたりしてレコーディングした”

【引退】
ホリプロ20周年の年、デビュー7年目で20歳の山口百恵から結婚・引退を聞かされる。
“付き合っているのは知っていたが、まさか引退するとは”
“三浦友和の魅力にホリプロのマネジメントが負けた”
“反対して止められるものではないと思った”

【株式公開】
長男の小学校入学面談で、親の職業を聞かれ、先生たちが顔色を変えないように努めているのを見た。
“社長の自分がこういう思いをするのだから、ましてや社員たちはどういう思いをするのだろう”
“そんな思いをさせる会社にいい人材などくるのだろうか?”
との思いで株式公開を決意。

【これからの若い「タレント」へメッセージ】
“自分はこれしか能がないのだと自分に引導を渡せるかどうかが大切。そうすると死にものくるいでやる以外ない。これを、他人に引導を渡されるのでは納得しにくいし、うまくいかなきゃその人のせいにしてしまう。”

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